言葉を伝えるということは、誤解を生じさせる部分もあるわけで、例えば、この記事の中にある内容はいらぬ誤解を招く可能性もあって、その点は嫌なのだが、書いたまま、誰の目に触れられぬというのもどうかと思った。なお、参考文献表は作っていなかったのか、なかった。
以下、本文
本稿は、戦後日本社会において、一定の成熟が見られたとする1970年代に登場した孤独死という現象を取り扱いながら、孤独死の社会学的な解明を目指すものである。
ここでいう孤独死は、誰にも看取られずに一人で死んでいくという事態を意味するが、一方においては、死という現象は個体としての個人に起きるものであって、孤独という言葉と、死という言葉の合成語として存在している孤独死は、そもそも、当然の事態を指したものともいえる。
本稿においては、まず、孤独の含意を先行研究からレビューしつつ、孤独という言葉の積極的な一面
として捉えられるプライバシーの領域があることを述べる。
その上で、日本において孤独死という言葉が出現した、1970年代に遡り、その言葉の登場以来、一貫
して、孤独を問題とする視点から、孤独死が捉えられてきたことを述べる。
最初に、孤独死から離れ、孤独がいかに捉えられてきたのかを検討する。
フロム「自由からの逃走」は、当時、もっとも民主的な憲法を持ったワイマール共和国の人々が、自
由から逃走する結果、ファシズムへと向かっていったと述べていることで有名である。この中から、孤
独について言及している部分を取り上げていく。
フロムは、まず、中世期等、近代における自由が存在する以前において、人は第一次的な絆の中にい
たとする(38-39 フロム )。この絆は、幼児期、未開社会の氏族や自然の絆、中世期の人間を教会や
社会的階級に結び付けていた絆であるという。
子供を例にとってみれば、子供は、肉体的、精神的に強くなることによって、積極性が生まれてくる
。さらに人格が統合化され、意思と理性が発達することによって、個性化が発達していく。
しかし、個性化と平行する形で、外界と自己の分離が促進され、孤独が進展していく。もしも、個性
が、自然との自発的な関係であるところの、愛情と生産的な仕事に結びつくのであれば、人は満足感を
覚える。しかし、外界が脅威と危険に満ちているために、個性の実現へとは至らず、単に無力さと不安
を生み出すこともあるという。
一時的な絆からの疎外は孤独を生み出すが、外界と接触する中で、個性を発揮できない時も、孤独は
生まれる。一時的な絆と、個性からの疎外という二重の疎外が、孤独を生みだすとフロムは述べる。
これらの疎外は変動期において、表れがちである。
フロムは、人間が安定的な関係を営めていた中世に対して、ルネッサンス期を変化の端緒として詳述
している。
まず、中世における安定をいかに捉えているのかを見てみよう。
そこにおいて、特徴的なのは「固定的な地位」(52)、「はっきりとした役割」(52)という形で、
人間の地位と役割が堅固なものとして存在していたということである。固定的であることは自由からの
疎外であるようにも思えるが、フロムは中世期においては、「社会的な地位の限界を破らない限りでの
自由な仕事」(52)、「感情的な自由」(52)という形で、地位と役割の一貫性を前提とする限りでの
個人主義があったことを述べている。
これは中世が暗黒期であったという見方とは異なるもので、例えば、社会史家のアリエスらと軌を一
にするものである。アリエスは、「死と歴史」の中で、中世期の農村において、宗教の力によって、人
が死を受け入れる動機付けを得ていたことを挙げながら、教会の役割を挙げている。
フロムもまた、中世期には、人は「神から愛されているという確信」(54)を持っていたことを述べ
ながら、「一般的なカテゴリーを通してのみ自己を意識していた」(55)と述べている。そこには近代
とは比べられないような安定があったという。
こうした安定的な状況に変化がやってくるのが、ルネッサンス期である。
固定的な地位、階層に変動が訪れた例として、フロムはイタリアを例に挙げる。当時、法王と皇帝の
政治的な争いの結果、多くの政治団体が発生していたこと、東洋から絹織物や工業発達に必要な技術が
輸入しやすい地理的な位置であったことを要因としながら、イタリアには強力な有産階級が発達してい
った。
そして、有産階級の発生は、富の重要性を増す結果にも繋がった。
ルネッサンスの文化は上層階級のものだったから、富を与えられることのなかった大衆は、安定感と
帰属感を失う結果になった。支配者によっては、大衆を操作するために、また、同じ階級の競争者を抑
えるために、肉体的な拷問から心理的な操縦まであらゆる残酷な手段が用いられた(58)。そこにおい
て、孤独と平行して生まれたのは、疑惑と懐疑であったとフロムは言う(58)。
疑惑を抑える手段として、名誉や評判が尊ばれ、「他人の中にまさにある反響をもたらすことによっ
て、はじめて意味と価値」(59)とを人は持つことができると考えられるようにもなった。
加えて、資本や市場市場や競争の役割が増大したが、かつての村やまちでの市場で販売が行われてい
た際には、事前に販売額が予測できたものの、巨大な市場においては、予測は不可能となった。
こうした状況の変化の中で、後にプロテスタントの源泉にもなったルターが登場する。ルターは教義
を教会ではなく、個人のものとした。そして、彼は、人間の悪と無力さを強調した(83)。
ルターは人間が本性のままでは、善行はできないと考えた。いわば、背徳的な存在であるとした。な
ぜならば、神を必要とする人間の精神は、人間の腐敗と無気力を確信するところからやってくるとした
からである。「みずからをけなし、個人的意思とおごりを打ち破るときにのみ、神の恩寵は訪れてくる
」(83)。これこそが神の恩寵の本質的な条件とされた。
ルターは、この考え方を高度にし、人間が根本的に悪に満ちており、なずべきは神に身をまかせるこ
とだけだとした。
しかし、フロムは、人間が持つ懐疑を悪へと差し向けるルターの態度の中には、確実性への強烈な追
及を見てとる(p86)。確実性の追求の中に、人が耐えることのできない懐疑を克服しようとする要求
を見てとるのである。
懐疑は、近代科学一般において、一つの出発点であった。懐疑を静めようとする努力が、合理的な解
答を導き出してきた。
フロムは、懐疑の源泉こそが孤独であり、彼の欲求に対して、彼の位置が意味のあるものとならない
限り、決して消滅はしないものとしている。
ここでは、孤独は「個人の要求に対する意味のある位置の欠如」という形で把握できることが分かる
。
さて、フロムの分析は主に、一次対戦と二次大戦の戦間期において、なぜ、ドイツにファシズムが到
来したかに向けられているので見ていこう。ファシズムの支持層は、主に、下層中産階級、小さな商店
主、職人、ホワイトカラー労働者であったという。
彼らは強者への愛を持ち、弱者への嫌悪、小心敵意、金についてもけちくさいなど欠乏の原則にもと
づいた態度をもっていた(234)。
一次大戦後、中産階級は、経済的に衰退した一方、1924年から28年にかけて、下層の中産階級は、経
済的向上という新しい希望をもたらされた。
しかし、これらの層は、1929年の世界恐慌に際して、労働者層と上層階級に挟まれて、もっとも無防
備な状態となった。さらに経済的要因に加えて、敗戦による君主制と国の崩壊は、心理的に硬い岩とな
っていた生活の基礎を打ち砕いた。
また、労働者階級の地位は向上し、中産階級の相対的な威信の低下を招いた。
加えて、インフレは、長年の蓄財や倹約の美徳をなきものとし、家族内においては、戦後の発展の中
で、モラルが変容する。若い世代が新しい社会的条件にキャッチアップする一方、古い世代に優越を感
じるようになる。古い世代の教えを新しい世代は受け取ろうとしなくなった。
こうして増大する中産階級の不満は、外部へと反射する形となり、国家社会主義の源泉になった(
238)
多くの中産階級において、インフレと敗戦という出来事は、心理的な衝撃を伴う威信の低下をもたら
し、世代間の不協和ともあいまって社会的不満が蓄積された。そして、不満は外部への反射口を求める
ようになり、やがて、ナチス党の躍進へと繋がっていくのであった。
すなわち、ここまでで、一次的絆と個性からの疎外に加えて、フロムは、相対的に変動することを前
提とした階級の地位の変動を巡っておきる諸所の不満を孤独として捉えた。
一方、都市社会学の創始者であるパークは、孤独を空間的構造と機能の問題であると同時に、コミュ
ニケーションの阻害であると捉えた。
孤独の地理的な形態(距離化)は、コミュニケーションを疎外し、孤独は、社会的な接触を阻む要因
として捉えることができる。
また、人種という概念は重要であると述べている。身体的なしるしは、人種的な孤独や、人種的な排
外の象徴となるものであるからだ。身体的、精神的な欠乏は、グループから個人を疎外しがちであって
、一般的ではない身体的な障害や身体的なバリエーションは、社会的な差別の基礎になりがちだ(228
)。
そうした排外に繋がるネガティブな意味での孤独がある一方で、孤独は、グループと個人の双方にと
って、個人性と統一性の原因にもなるという意味で重要でもある(230 park)。
孤独は、個人にとっては外部のコントロールからの自由であり、他の人々から物理的に離れているこ
とは、個人的な発展の機能である。それは、プライバシーという概念で言い表すことができるという。
例えば、大学という集団が独自の発展を行うためには、他の集団から離れていることが重要である。
パークに従えば、孤独は、プライバシーという形で、個人や集団にとって、重要な意味を帯びている
ということになる。
パークは、空間的な距離が、コミュニケーションの疎外をもたらすものとして捉えつつ、その背景に
差別の存在を見てとる一方で、孤独を外部のコントロールからの自由であり、自己発展に向かう契機で
もあると、孤独に積極的な側面を見ている。
これは先のフロムの一次的な絆と個性への疎外に当てはめてみれば、個性へと向かう際の孤独に積極
的な面をパークは見ていると考えてもよいだろう。
加えて、日本の社会学者である井上俊は、管理社会論の視点から、孤独について述べている。人は組
織の中で行動する限りにおいて、様々な情報や、金銭的給与という形で、組織から広い意味での「報酬
」を受け取る。この「報酬」が、参加者のニーズと不協和を起こすときに、孤独が生じることを井上は
述べている。これは地位の相対性によって生じる不満と対比する形で、報酬の欠乏が孤独を呼び起こす
ものとして捉えておくことできるだろう。
また、流行歌を分析した見田宗介は、日本においては、孤独を美的な意味に昇華することを通じて、
その衝撃を緩和することがあると言われている。
ここまでの話を要約すると、ネガティブな意味の孤独については、@第一的絆からの疎外A個性から
の疎外B意味のある地位の欠如という他者との相対性を問題にした諸所の不満。C報酬の欠乏により生
じる不満、が挙がる。
そして、個人の個性や集団の統一性を見てとるプライバシーを積極的な孤独の意味として見てとるこ
とができる。
ところで、このように孤独を分類していくと、その前提には、孤独が個人にとって意味の感覚の喪失
であるように思える。というのも、個性にしてみても、それは本人が有意味と感じているからこそ、個
性であり、地位にしても、その地位を有意味であると考える限りにおいて満足が生じるというのは自明
だろう。
マートンは、欲求の普遍的強調と、制度的手段による達成の不可能性が、アノミーをもたらしたと述
べている。それは、例えば、大多数の人に対して、共通の達成目標を賞揚しながら、それに対して、達
成手段が不足している際に、欲求の無規制が発生し、自殺が増加する自体である。
広義の意味で捉えるのなら、孤独は、意味の喪失である。人が感じられる意味が欠如していくときに
、そこに孤独が生まれる。また、逆の言い方をするのなら、これまでに述べていた不満については、有
意味さの欠如と無意味さの増大であるという形で捉え返すことができるだろう。孤独を、アノミーに似
たものとして把握することができる。
そしてまた、この意味の喪失を踏まえたときに、孤独が死と類似した側面を持つことが分かる。
社会学者のエリアスは、「死にいく者の孤独」の中で、西欧社会には、死を忌避する傾向があること
を述べながら、死をタブー化する側面があるとの認識を示している。その中で、老人のなどの死に近い
者が、他者によって有意味な存在であるという感覚を失うことを指しながら、死者が孤独を感じること
を述べている。
また、死のタブー化について検討した、イギリスの社会学者メラーは、死が、個人を恐怖へと開かせ
る潜在力を持っていることを述べながら、その理由として、「死が意味の有無と、当人が参与し、存在
論的安心を囲っている社会的な枠組みへの疑問を要求する原因であるから」と述べている。
このように、意味の喪失という点において、孤独と死には共通点があり、このことから、孤独死とい
う語は、重ね言葉として捉えることができるだろう。
続く、節においては、日本において孤独死という言葉が登場する時代に遡り、主に雑誌記事を用いな
がら、孤独死という言葉の取り扱われ方を述べていく。
記事は、意味の集積であり、記事には孤独死がどのような含意をもっていたのかが表象される。
この中から、具体的には、もっとも大規模な表象を対象にするために雑誌と新聞という異なるメディ
アにまたがって掲載される出来事の記事をピックアップする。その上で、主に雑誌記事を対象に孤独死
という言葉に付随して登場する言葉に注目しながら、孤独死がどのような意味を持って表されているの
かを明らかにする。
新聞記事については、朝日新聞の見出しデータベースを用いて、孤独死という検索語を入れて抽出し
た。一方雑誌記事については、大宅壮一文庫の項目索引の中から、「孤独死」を選択して、記事を検索
する。
双方において共通して掲載されている事件の記事は、以下のとおりである。
@「インサイド 状況3年半の美容師「大都会の孤独死」」『週刊サンケイ』1977年2月10日
A「“札チョン”妻→銀座ホステス→トルコ嬢→孤独死 元ミス・札幌、6年間の転落の軌跡」『週刊
女性』1977年9月27日
B「銀座ホステスから転落した浅草・トルコ嬢の孤独な死」『週刊新潮』1977年9月29日
事件の記事については、それぞれの事件の共通点は、女性の地方出身者が、東京で一人暮らしをして
いたが、自室の中で一人で死んでいたという内容である。
まず、@の記事について見ていきたい。なお、週刊サンケイという媒体は、毎日新聞社の読書世論調
査によれば16位。男性は9位、女18位以下と、主に男性が読んでいる雑誌であった。
被害者は、東京中野区に在住していた25歳の美容師見習で、出身地は沖縄県の女性である。
近場に姉が住んでおり、記事は、
「『こんなにやせちゃって、なぜ、なぜ』といったまま言葉はない」という形で、肉親による悲嘆の
言葉を載せている。記事は「『やっぱり、女の子らしい部屋ね…。一声かけてくれれば…』という声が
近所の人から漏れた。『なにも話すことはありません。なにも』と、父親は固く口を閉ざした。そう、
肉親にも原因がおもいつかないまま、25歳の娘がひっそりと死んでいった。都会の片隅のいかにも寂し
い生活の終止符であった」と締めくくる。
記事は都会の一人暮らしの生態を、一種の謎として投げかける。死の原因は、以前までもっとも近く
にいたはずの肉親も理解することはできなかった。そのことが、死を一層寂しいものとして把握させて
いる。
逆にいえば、肉親達に囲まれて出身の沖縄で死んでいたのならば、必ずしも寂しいものとして、記事
にすることはできなかったろう。死因や生態のわからなさが事件をより一層衝撃的なものにしているよ
うである。
この事件の謎解きをしようとする記事があった。
藤竹暁『−連作・事件の社会学−美容師はなぜ餓死したか−−生への適応力を失った背景』諸君1977
年5月は、より詳しく状況を伝えている。
藤竹によれば、事件は、各紙朝刊社会面で大きく取り扱われた。読売新聞は見出しに「花の命に東京
砂漠」と記しており、日経新聞の見出しには「餓死」とつけられたと述べられる。これらのことから、
相応の衝撃力を持って社会に迎えられた事件であったことがわかる。
藤竹は、被害者が「都会の群集としての」「都会人としての資格」を有していたとしながら、以下の
理由を挙げる。
住まいそのものは、現代的な空気を感じられない木造アパートであったが、部屋には買ったばかりの
ハンドバック、テレビ、電気冷蔵庫、電気こたつ、冬服20着があった。また、帽子やアクセサリ類など
のセンスがよかった。買い物上手でもあり、姉を羨ましくさせることもあったという。加えて、新宿に
は行きつけのスナックもあったという。
都市的なライフスタイルの享受が述べられることで、孤独死の背景は、肉親や身近な近所づきあいか
ら離れた、都市という範囲に広げて解釈されていることがわかる。
しかし、藤竹は、こうした都市的ライフスタイルを享受していた一方で、美容師としての本業では人
間関係が必ずしもうまくいっていなかったことを挙げながら、美容師には適応できないほどの繊細さが
あったことを死因の理由としてあげている。
この原因究明は必ずしも成功しているかは定かではないが、60年代から70年代が都市にとって、激変
期であったことは確かである。
例えば、倉沢進によれば、70年代は日本全体のライフスタイルが「都市化社会」へ変容した時期だと
言う。農村地域において、それまで、自家で用意していた井戸を使って、水を供給し、自家で用意した
薪炭を使って炊事を行っていたという生活スタイルは、簡易水道やプロパンガスの普及という形で変化
し、行政、商業サービスを用いた生活スタイルが普及しはじめたのが70年代であったという。
また、都市部に持ち込まれた生活様式、庭付き一戸建てに住み、幼児が泥遊びをし、老人が縁側で日
向ぼっこをして見守るという生活スタイルは解体し、児童遊園、都市公園、託児所などの社会的共同施
設に対する住民要求が非常に高まるなど、都市部においても、都市的生活スタイルの深化が見られたと
される。加えて、この時期を通じて、テレビの普及率はほぼ百パーセントに達したという事情もあった
(倉沢 21 )。
こうした都市的生活様式の深化は、高度経済成長期を境として、各種の耐久消費財が三種の神器、3
Cとして呼ばれ、家庭へ普及したことと繋がる。この時期を通じて、家族は、生産を行う共同体から、
消費を行う共同体へ変容していったと言われている。
そして、この頃から、こうした実生活との関係での孤独の捉え方も微妙に変わった。サブカルチャー
を通じて、若者のコミュニケーションについて研究した宮台真治は、60年代のサブカルチャーと、70年
代のそれを比べながら、60年代においては、「小さな個人」という意識が痛切な<疎外感>や<解放>
への希求に彩られたものだったのに対して、とりわけ73年以降のそれが基本的に現状肯定的な色合いに
変わったことを特徴として挙げている(276 宮台 2007)
見田宗介は「まなざしの地獄」の中で、農村から金の卵としてやってきた若年労働者が、農村や古い
因習から自由になったものの、労働者としての都市生活における疲労の中で、休みを得て、自分の部屋
の中に自分の望む友人たちを招き入れたいという願望をアンケートの結果から読み取っているが、60年
代のサブカルチャーが、<疎外感>に焦点をあてていたのは、都市と農村の格差や、都市における階層
格差を、はっきり目に見えるかたちで意識せざるを得なかった社会状況がある(286 宮台)。
しかし、60年代において、疎外感は社会状況との関連で見られていた一方において、70年代において
、むしろ、いわゆる大人はもちろんのこと、周囲にも溶け込めない「私にしかわからない<私>」を描
いていく少女漫画に現れた。
60年代において、若者のサブカルチャーは、<大人>や体制という否定的媒介を通じて、われわれ意
識をもつことができたが、団塊世代が主役を演じた大学紛争の挫折の後に、急速に衰退した。この後に
現れたのが、「私にしかわからない<私>」という、アイデンティティーの個人化である。つまり、「
私らしい愛」、「私らしい幸福」、「私らしい幸せ」の追求が始まったと宮台は言う(112)
こうした動きは、経済的な動きとも連動していた。オイルショック、ドルショック以降、企業は国内
市場の開発に努め、消費者のニーズに細かく対応していくことで、商品の質が飛躍的に向上し、そのバ
リエーションも爆発的に増大したという。これは、「私らしい私」の追求の流れを可能な限り、商品化
したことだという(118)。
すなわち、60年代においては、都市と農村の格差、ないしは階層格差という社会問題との関連の中で
生じていた疎外感は、70年代を経由する中で急速に私自身のごく個人的な問題として現れるようになっ
たということである。
藤竹によればこの事件は、被害者の繊細さに原因があるという。とすれば、どちらかと言えば、70年
代型のアイデンティティーを軸にした捉え方がなされている。傍証するように、出身地は沖縄というこ
とであるが、返還されたばかりの沖縄と本土という隔たりをもった政治的な相違は背景として、記事に
は記されない。
だが、都市と地方の相違は記事の中から読み取ることはできる。例えば、読売新聞の見出しが「東京
砂漠」という言葉を使ったのが分かるとおり、孤独死を都会の現象として取り扱う視点はあった。
では、都会はどのような意味を持っていたのか。当時の記事の中には、東京の人間関係の希薄さや危
険さ、その反面として消費生活の豊富さを伝える言葉がある。例えば、週刊女性 1977年6月7日「怖
い! アパートの一人暮らし“東京砂漠”が彼女を殺した」は、孤独死という言葉を使わないものの、
23歳の女性、一人暮らしが遺体となって発見されたことを、詳報している。
この女性は、東京の国立市谷穂のアパートの一人暮らしをしており、中学卒業後に地方から上京し、
工場やデパートに勤務した後、三年越しの交際の結果、恋人との結婚を控えていたが、心筋梗塞によっ
て亡くなった。死んだ際には、バナナ一本とチョコレート、現金750円しか残されていなかったという
。
記事は、東京という空間をまるで、自動販売機のようであると形容する。「電話もない。身近に人も
いない。苦しい。孤独だ。死にそうだ。痛い! 気を失いそうになる。その瞬間、・・・自分が巨大な
自動販売機のような大都会に飲み込まれて、叫びも救いも聞いてくれる耳ひとつないことを思いしった
だろう」。
ここには、東京が何かあるかわからないところ、助けてくれるも人もいないところ、また、幸福と不
幸が紙一重のもとで成立するような場所であるということが、地方との対比の中で描かれている。
こうした記事の中には、既に、地方と都市の格差の存在は暗示されてはいないが、東京が消費/競争
社会としての危険さや不安さを抱えた空間であると見られていたことは読み取れるだろう。孤独死は、
都市の危険さや不安さというネガティブな側面を象徴する現象だったのである。
だが、単に危険である、不安であるというだけではない。危険さ不安さは、Bの孤独死、トルコ嬢の
転落人生を描いた孤独死の記事にも現れている。札幌でテレビ局関係者の愛人となり、東京の銀座でホ
ステスを始めるものの、浅草でトルコ風呂で働くようになった後に、自宅の風呂の中で死んでいたとい
う記事である。その記事の中には、以下のように東京の生活について触れた一文が入る。
「東京で、おもしろおかしく生きようとすれば、生きられる。だが、すさんだ生活にどんな心の光が
あったろう。」
享楽を謳歌できる場所であるがその一方で、「心のひかり」という形で、親密な者の不在が述べられ
ている。心のよりどころになるような他者が、東京にはいない、そんな前提がこめられている。
また、沖縄出身の被害者が出た事件については、もう一つの解釈がある。これもまた、他者に関わる
解釈である。矢崎仁司という映画監督は、この事件を題材にしながら、「風たちの午後」という映画作
品を撮っている。
この映画作品は、女性同士の友情と、それが愛情へと転化していく悲劇を描いたものである。矢崎監
督は、あるインタビューに以下のように答えている。
−作品を撮るきっかけは?
「新聞記事に、沖縄の美容師が餓死したという事件があったんですよ。この餓死という死に方、自殺
をやりたいとおもったわけです。」
この作品は、都会の片隅のアパートで起きる。どこにでもありそうなアパートでの生活風景の中で、
美容師の美津は、保育士の友人に愛情を寄せる。愛するがあまりに、美津は、 友人の恋人の子供を宿
すが、離れられ、美津は、次第に生命力を失うように、アパートの一室で朽ちていくというのが筋であ
る。
都会であれば、どこにでも、あるような生活の中で、美津は、友人を「心のひかり」と捉えていた。
だが、それが失われる時に、生きる意欲が失われていくのである。
そして、親密な他者とは、極めて特定な人間であり、一心に想いが差し向けられるような対称のこと
である。友人であれば、誰でもいいというような想いとは、異なる。親密な他者とは、代替不可能な存
在であり、その喪失は死と同義であるように描かれているのである。
1970年代の雑誌記事を見ていくという、限定的な方法においてではあるが、理由もわからずに不可解
に一人死んでいくというこの現象は、都市の危険性や不安さを示す現象として読み解くことができた。
そして、不安や危険性の背後には、親密で代替不可能な他者の不在が示されているように思われる。孤
独死を通して当時表象されていたのは、都会の不安の中において、それを克服しうる代替不可能な他者
の必要性ではないだろうか。
【日記の最新記事】

